カンボジア主要年表
1887年
フランス領インドシナ連邦
成立
ポスト・アンコール時代近代以前

●1603年正月、徳川家康が当時の国王に通商(朱印船制度創設)に関する書簡を発出。カンボジアからも国書が送られ、以来、日本商船の渡航が頻繁となるとともに、カンボジアに居留する日本人が増えた。プノンペンとポニャールー村付近(カンダール州)の二ヶ所に日本人町が形成。
●17世紀初め、島野兼了はアンコールワット(祇園精舎と誤解)に詣で、寺院を写生(「祇園精舎の図」水戸の彰古館所蔵)。また、1633年、森本右近太夫一房も同寺院を詣で、墨書を書き残した。
1941年
ノロドム・シハヌーク国王即位
第2次世界大戦太平洋戦争時代

●1942年春、領事館に相当する「日本特派大使府金邊支部」設置。大使府支部はノロドム通りシソワット高校の南隣。
●1945年3月9日、日本軍が仏印全土で軍事行動、仏軍を武装解除し、行政機構を接収。「シハヌーク国王顧問」として久保田貫一郎総領事を派遣。終戦にともない、日本軍は撤退。





1953年
フランスより独立
1955年3月
シハヌーク国王は退位し、
カンボジア王国首相
カンボジア王国(シハヌーク時代)〜日カンボジア外交関係樹立〜

●1951年9月4日、サンフランシスコ対日講和会議。カンボジアは仏連合内の協同国として参加。署名後、カンボジア側より日本に対し、外交関係開設の申し入れ。日本・カンボジアは相互に承認。
●1953年1月9日、駐日フランス大使より岡崎外相外務大臣宛書簡において、日本がフランスを通じて通告した外交関係樹立の(日本の)希望に対するインドシナ三国の好意的回答がフランスに対して行われたことを通報し、仏政府も日本とインドシナ三国の公式関係樹立を喜ぶと共に、カンボジア政府が日本と外交関係を樹立する希望を表明している旨言及。同書簡の中で最終的にカンボジア側の意向が確認されたことにより、同日が日カンボジア外交関係樹立の日となった。
●1953年2月9日〜5月13日、シハヌーク国王は独立十字軍運動のため日本等を訪問。外交自主権を回復した日本にとって、非公式とはいえ、最初のアジアの王国からの国王来訪であり、昭和天皇は皇居の茶会に招いた。なお、シハモニ王子(現国王)はシハヌーク国王がカンボジアに帰国した日に誕生したため、トウキョウとの愛称が与えられた。
●1953年11月9日、カンボジアはフランスより完全独立達成。
●完全独立を達成したカンボジアは既に準備していた日本との外交関係樹立過程をさらに進め、1954年3月19日、吉岡範武公使がプノンペン着任。在日カンボジア公使館(公使はノロドム・カントール殿下)の開設には、バッタンバン出身の留学生ウオン・サニット氏の尽力があった。
●1954年11月27日、カンボジアは在カンボジア日本公使館に対し、第二次世界大戦中の日本軍のカンボジア進駐により被った被害にかかる対日賠償請求権を放棄する旨通報。翌12月、日本はカンボジアの行為に少しでも報いるため、経済・技術面での協力を提供する用意があることを通報。
●1955年2月21日、双方の公使館を同時に大使館に昇格。初代は吉岡範武大使。
●1955年12月4日、シハヌーク殿下は国賓として日本訪問。この訪日の際、天皇・皇后両陛下と共に写した写真は現在も王宮博物館に展示。
●1955年12月6日、衆議院はカンボジアの対日賠償請求権放棄に対する感謝決議。
●1955年12月9日、シハヌーク殿下と重光葵外相外務大臣との間で、「日本・カンボジア間友好条約」(カンボジア語)に署名。この条約はカンボジアが独立後、また日本が講和発効後、それぞれ外国と締結した最初の友好条約。
●1959年、カンボジア政府は、プノンペンからトンレサップ河を渡った対岸への橋の建設(後の「日本橋」)を計画。国際入札の結果、潟gーメンと冨士車輌のジョイントが落札し、完成した橋は「日本橋」と呼ばれるようになった。
●1962年6月15日、タイとの間で争われたプレアビヒア寺院帰属訴訟において、国際司法裁判所(ICJ)はカンボジア勝訴の判決。田中耕太郎判事はカンボジアの領有権を認めた多数意見の立場。シハヌーク殿下は吉岡大使に感謝の意を伝えた。
●1965年、三島由紀夫はアンコール遺跡視察後、戯曲「ライ王のテラス」を執筆。劇団「雲」により帝劇で上演(ジャヤヴァルマン王役:北大路欣也)。
1970年3月17日
ロン・ノル将軍がクーデターにより首相に就任、「クメール共和国」成立
クメール共和国(ロン・ノル時代)

●1970年3月17日、ロン・ノル将軍がクーデターにより首相に就任し、「クメール共和国」成立。この政変が合法的になされ、新政府が引き続きそれまでの国際約束を尊重していくと表明したのをもって、日本は新政府に対し黙示の承認。
●1970年、プノンペン王立芸術大学チェン・ポン教授(98年〜選挙管理委員会委員長)がカンボジア舞踊団をつれて、大阪万博に参加。
●1975年4月5日、内戦により治安が悪化したプノンペンより、栗野鳳大使を召還後、日本大使館閉鎖。
1975年4月17日
ポル・ポト軍がプノンペンを陥落、民主カンプチア政権成立
民主カンプチア(ポル・ポト時代)

●1975年4月17日、ポル・ポト軍によりプノンペン陥落。新政権の実効的支配が確立したと判断した日本は、カンプチア王国民族統一政府(GRUNK)を承認。1976年、日本の在中国大使と在中国・民主カンプチア臨時代理大使との間で大使級の外交関係を開始するとの書簡を交換。
●1978年8月12日、副首相兼外相イエン・サリが訪日。同日、園田直外相外務大臣と会談。イエン・サリより日本大使の訪問を歓迎するメッセージを受け、在中国大使がカンボジア訪問。
1978年
ベトナムがカンボジアに侵攻
1979年1月
ヘン・サムリン政権により「カンプチア人民共和国政府」が樹立

1982年2月
民主カンプチア政権成立
1985年1月
フン・センがカンプチア人民共和国首相に就任
カンプチア人民共和国・カンボジア国(ヘン・サムリン時代)

●1979年1月、ヘン・サムリンを首班とする「カンボジア人民共和国政府」が成立。越の軍事介入による傀儡政権を、日本政府として政治的に認めるわけには行かず、ポル・ポト政権を承認してきたそれまでの立場を維持。
●1980年、上智大学はアンコール遺跡国際調査団を派遣。
●1982年2月、反越・反プノンペン政府の抵抗闘争を続けるポル・ポト派・シハヌーク派・ソン・サン派の三派がシハヌーク殿下を長として「民主カンプチア連合立政府(CGDK)」を成立。日本は「ASEAN諸国の立場を支持する」政策により間接的にCGDKを支持。
●1982年末、プノンペンの在留邦人は2名のみ。
カンボジア和平

●1987年10月24日、在フランス日本大使がパリ近郊でシハヌーク殿下と懇談。日本の大使の同殿下公式訪問は1970年のクーデター以来、17年ぶり。
●1987年12月2日〜4日、パリ近郊でシハヌーク殿下とフン・セン首相が会談。
●1989年7月30日、仏・インドネシアが共同議長で、「カンボジア和平に関するパリ国際会議」開催。日本は、第二次世界大戦後初めて、アジアにおける第三国の紛争解決を図る国際行動に参加。
●1989年8月2日、パリ会議第三委員会(難民問題)にて日・豪が共同議長国。
●1990年2月12日〜23日、日本政府としてはじめて、外務省アジア局南東アジア第一課長とカンボジア担当官が未承認政権であるヘン・サムリン政権下のカンボジアを視察。
●1990年6月4日〜5日、「カンボジアに関する東京会議」開催。第二次世界大戦後の日本外交において、初めて第三国の紛争解決を目的とする国際会議を主催。
●1991年4月20日、フン・セン首相が医療目的で来日。
●1991年10月23日、「カンボジア和平パリ協定」(カンボジア紛争の包括的な政治解決に関する協定)の署名式。日本が国際的紛争の和平協定に署名したのは第一次世界大戦終了を宣言するベルサイユ条約への署名以来70年ぶりの出来事。日本からは中山太郎外務大臣。



1992年3月
国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)が活動開始
1992年6月
カンボジア復興閣僚会議の開催










1993年5月23日
第1回カンボジア制憲議会選挙が実施される
1993年7月1日
カンボジア暫定国民政府発足
1993年9月
カンボジア復興国際委員会開催
1993年10月
アンコール遺跡救済国際会議の開催
国連暫定統治機構(UNTAC)時代

●1991年11月10日、今川最高国民評議会(SNC)担当大使プノンペン着任。公邸とSNC日本政府代表部はホテルカンボジアーナ。
●1991年11月25日〜26日、最初の衆議院議員団がカンボジア訪問(団長小渕恵三議員)。その後、国会議員の来訪は与野党問わず増加。
●1992年3月15日、明石康・国連事務総長特別代表が着任。同日、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)が発足し、国連による平和維持活動が開始。
●1992年3月25日、日本政府代表部は正式に在カンボジア日本国大使館に昇格。
●1992年6月22日、東京にて、カンボジア復興閣僚級国際会議本会議開催。共同議長は日本と国連開発計画。33カ国と13の国際機関が参加し、計8億8千万ドルの支援拠出を約束。また、カンボジア復興国際委員会を毎年日本が主催し、東京・パリで交互に開催することを取り決め。
●1992年9月8日、閣議で、国際平和協力隊派遣を決定。その後、自衛隊施設大隊は国道二号線、三号線の修復工事を開始。駐屯地はタケオ州州都。10月14日、隊長以下75名の文民警察官もプノンペン到着。
●1993年4月8日、国連ボランティア(UNV)の中田厚仁氏が有権者登録作業に参加していたコンポントム州で銃撃により死亡。事件現場の村は現在「アツ村」と呼ばれている。ウナロム寺院(プノンペン市)に、父中田武仁氏(現在国連ボランティア大使)が慰霊碑を建設。
●1993年5月4日、バンテアイミアンチェイ州の日本文民警察隊が武装集団に攻撃され、高田晴行警視が殉職。1997年、故高田警視の父(故高田雅夫氏)が慰霊碑をタン・コーサン寺院内(プノンペン市郊外)に建立。
●1993年9月8日〜9日、パリで第一回ICORC(カンボジア復興国際委員会)会合。日本が議長で、参加は31カ国、EC委員会、12国際機関等が参加、計10億ドルの支援がまとまった。日本は20億円の無償資金協力を約束。同会合は1994年、1995年にも開催。
●1993年9月16日、プノンペン郊外の日本橋修復に関し、日本の外相として35年ぶりにカンボジアを訪問した羽田孜外務大臣とノロドム・シリブット外相により、最後のボルト締めつけが行われた。
●1993年10月、東京にてアンコール遺跡救済国際会議(日・仏が共同議長)。遺跡保存協力の調整のための「国際調整委員会」を立ち上げ。ボパデビー王女が王室を代表して出席。















1997年
7月事変



1998年7月26日
第2回総選挙実施
1999年4月
ASEAN加盟
(第2次)カンボジア王国時代

<第1次政権>
●1994年2月26日、トンレサップ河チュローイチョンワー架橋落成式に、カンボジアと日本の要人が多数参加。国王の書簡により「カンボジア・日本友好橋」と命名。友好橋に続く国道6A号線は友好の証として「日本友好道路」と命名。
●1994年10月、広島アジア大会にカンボジア選手も参加。和平後初めての国際スポーツ大会への参加。「ガンバレ・カンボジア」という応援団も結成。
●1994年、日カンボジア友好議員連盟発足。
●1994年、日本国政府アンコール遺跡救済チーム(JSA)発足。バイヨン寺院北経蔵など修復開始。
●1995年1月、阪神・淡路大震災の義援金としてシハヌーク国王より2万米ドル。その他見舞い状多数。
●1996年7月11〜12日、日本の主導のもと、東京で第一回支援国(CG)会合(議長は日本・世銀)。会合全体としてカンボジア政府の96年対外資金必要額にほぼ一致する5億ドルの支援を表明。その後日本は一貫してカンボジアの最大援助国として開発を支援。1997年パリにおいて第二回CG会合。
●1997年6月20日〜22日、G8サミット(先進国首脳会議)において、橋本龍太郎総理はカンボジア情勢緊迫に対する憂慮を表明し、特使派遣を提案。総理特使として今川幸雄元大使。
●1997年7月5日〜6日、「7月事変」発生。日本はカンボジア政府に対し、パリ和平協定を尊重、現憲法・政治体制を維持、基本的人権を尊重、明年の自由公正な選挙実施にむけての努力を要請。11月5日〜10日、フン・セン第二首相が健康診断のため訪日した際、ラナリット殿下の選挙参加が可能である旨、初めて明確な発言を引き出した。
●1997年7月5日、国道6、7号線改修工事プロジェクトのコンサルタント業務に関わっていた岡島隆正氏が、武力衝突による市街戦の砲弾により死亡。故岡島氏の慰霊碑は2号線の袂にあり、「国道6、7号線改修計画」の完成式の際には、御遺族の見守るなか、フン・セン首相自ら斉藤大使(当時)とともに、慰霊碑に献花した。
●1997年、クメール瞑想文化研究所チェン・ポン所長が福岡アジア文化賞大賞受賞。
●1998年7月26日、総選挙実施。日本は選挙専門家1名を派遣するとともに監視員32名を派遣。国連開発計画(UNDP)信託基金を通じて580万ドルを拠出。
2003年7月27日
第3回総選挙
<第2次政権>
●1999年、元日本国費留学生のペン・セタリン女史の長編小説「アンコールワットの青い空の下で」がシハヌーク国王文学賞受賞。日本語にも翻訳。
●2000年1月、小渕恵三小渕総理がカンボジア訪問。日本の総理がカンボジアを訪問したのは岸信介総理以来43年ぶり。
●2000年6月8日、フン・セン首相夫妻は、小渕恵三小渕前前総理の葬儀に参列。
●2001年6月21日〜27日、秋篠宮同妃両殿下が皇族として初めて、カンボジアを御訪問。国王は異母姉弟であるシリヴット殿下とヴァチャラ王女殿下を自らの名代として接伴役に任命。
●2001年12月、コンポンチャムのメコン河架橋「きずな橋」が完成。2003本年4月、500リエル新紙幣に刷り込んで発行。
●2002年3月、日本大使館移転。
●2002年5月24日〜6月8日、日本大使館再開10周年を記念し、「日・カンボジア文化交流祭」実施。二週間にわたり、盆踊り大会・日本映画祭・各種講演シリーズ・和太鼓コンサート等を挙行。「ロアム・ボン祭」には3千人以上のカンボジア人や日本人が参加。
●2002年11月3日〜5日、ASEAN+3サミット参加のため、小泉純一郎小泉総理がカンボジアを訪問。
●2003年6月17日〜19日 川口順子外務大臣外相がASEAN+3外相会合、ASEAN地域フォーラム(ARF)、ASEAN外相会議(PMC)参加のため、カンボジアを訪問。
●2003年10月29日〜、日本カンボジア外交関係樹立50周年を祝し、2か月近くに亘って記念式典・盆踊り大会等の記念行事を実施。
2004年7月15日
第3次王国政権樹立
2004年10月29日
シハモニ国王戴冠
<第3次政権>
●2005年5月9〜13日、フン・セン首相が訪日し、「愛・地球博」カンボジア・ナショナルデーに出席。
●2005年6月10日、町村信孝外務大臣がカンボジアを訪問。
●2005年9月6〜9日、海上自衛隊練習艦隊がシハヌークビル港に寄港。カンボジア海軍との交流の他、プノンペンではシハモニ国王謁見、独立記念塔への献花を行った。
●2006年2月21日、我が国の無償資金協力により完成した「日本・カンボジア人材育成センター」の開所式をフン・セン首相出席の下で行った。同センターの主な活動は、両国の相互理解を促進するための交流事業、カンボジアの市場経済化を促進する人材の育成。今後、両国間の友好関係の更なる促進に寄与することが期待される。





Copyright(C): Embassy of Japan in Cambodia